北海道最古の旧石器文化と白滝は名実共に人類の世界遺産
世界的に見ると、人類と黒曜石の出会いは想像以上に古い。道具として黒曜石を利用した確かな例は、少なくともヨーロッパでいう前期旧石器時代のアシュール文化にまでさかのぼる
アシュール文化のハンド・アックス
フランスのサン・アシュール遺跡の名をとったアシュール文化のハンド・アックスは、アフリカでは約140万年前からつくられるようになったが、ヨーロッパでこのタイプの石器が広がるのは、約50万年前以降のことである。写真のアシュール文化のハンド・アックスは約70万年前のもので、タンザニアのオルドバイ峡谷で出土した。アシュール文化の石器の特徴は対称形であることだが、このハンド・アックスにもその特徴がみられる。
南オセチアのクダロ洞穴から出土したハンドアックス(握斧・あくふ)が良く知られている。
人類史上最古の旧石器時代は、道具の多くが石で作られた時代。
アフリカで誕生した猿人が、手頃の石を道具に仕立てたのが、石器作りの最初とされる。(「原人」「人類進化―1」)
その後、原人、旧人、新人と続く人類の進化に合わせて石器作りは大いに発達する。槍先や矢じり、皮なめし具、ドリルなど、目的に応じて各種の道具が作られる。
石材も、その用途に応じて選ばれることになる。作りやすく、しかも用途に適した強さや切れ味の鋭さが得られるフリント、黒曜石、頁岩(けつがん)、メノウなどが好んで使われた。
白滝・幌加沢遺跡出土の尖頭器
火山の噴出物や溶岩が急激に冷えてできた火山ガラス、黒曜石は、一級品であったらしく、石器作りの素材として広く世界に利用されてきた。
その貴重さゆえに、黒曜石とそれを求める人々の動きは、石器時代後も止むことがなかった。
古代エジプトのみごとなナイフも、後方コーカサスやアルメニアなど遠く地中海を越えて持ち込まれる黒曜石で作られていた。
北海道では、黒曜石の原産地として白滝、置戸、十勝三股、余市町赤井川が良く知られている。
黒曜石の原産地・赤字は主要原産地
新たな産出地の発見にも関らず、旧石器時代に果たした主要四ヶ所(赤字)の役割、中でも質が良くて大きな塊りが豊富に産出することで知られる白滝の役割について、高い評価は変わることは無さそうである。
1949年(昭和24)群馬県岩宿遺跡のローム層に調査の鍬が入れられ、日本列島にも旧石器(先土器)文化の存在することが確かめられた。(「岩宿文化」、「先史時代」、「石器時代」)
それから遅れること5年、北海道においても研究が開始された。道南の桧山管内樽岸遺跡の発掘調査である。1954年(昭和29年)のことである。
【石刃
黒松内町樽岸遺跡】(市立函館博物館)
これらに先駆けて、白滝村で発見される黒曜石製の大量の石器、或いは大形の石器が、ヨーロッパの「旧石器」に類似するとして一部の人々に注目されていた。
白滝での発見史を紐解く時、遠軽町在住の愛好家・遠間栄治の名を忘れることはできない。 熱心な石器の収集活動は遥か以前に始っていたのである。若い頃から郷土史に関心を寄せていた遠間、遠軽町役場に勤めて間もなく、私設の郷土博物館を建て、湧別川流域で集めた黒曜石製の大型石器、石刃核など3.000点の資料を展示している。
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遠軽町西町1丁目 |
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遠軽町の中心を流れる湧別川流域には、言葉や文字の文化がまだ生まれていなかった先史時代の人々の残した貴重な資料が多量に発見されています。 |
洞爺丸台風と遠間栄治
1954年、15号台風が北海道に上陸し、青函連絡船・洞爺丸の沈没と言う忌まわしい惨事となった。 この洞爺丸台風が、白滝遺跡群の一つ、幌加沢遺跡遠間地点発見の契機になったことはあまり知られていない。(「日本人はるかなる旅展」 http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/2/2-21.html )
被害状況の調査、そして蛾の幼虫の大発生による二次被害を防ぐため倒木の処理にあたっていた白滝営林署の作業員が、倒木の下から30pを越す大きな両面加工石器が発見したことから始まる。 遠軽町の遠間栄治が経営する映画館で夜のみアルバイトをしていた作業員は、遠間が熱心に石器や土器を集めているのを知っていた。早速、遠間に伝えられた。 人の出入りすら拒む深い森の中で、地中深く眠っていた石器との感動的な出会いである。 大発見を確信した遠間は、その後、汽車と徒歩で足繁く通い、時に作業員に託しつつ資料の収集を続けた。山を降りるときには、リュックに一杯、黒曜石が溢れていたという。集められた膨大な資料は、遠間の没後、遠軽町先史資料館に一括して移管され、展示されている。
旧石器時代に繰り広げられた人類拡散のドラマを、石材や石器のみで語りつくすことはできない。しかし、旧石器時代の社会や文化の研究にとって石材研究は大きな可能性を秘めている。新たな石材を前にして、人類は技術をどのように応用し、刷新したのか、技術の伝播・受容、その変遷の原理が究明できるかも知れない。 又、石材の獲得が集団との関係で成り立ち、互いに支えあう関係にあったとすれば、当時の集団関係を解き明かす有力な材料を提供しょう。 何よりも、遠隔地に運ばれる黒曜石の道を辿ることで、直接には人々の移動の行跡を解明できるし、そもそもの移動の目的を探ることも可能になるに違いない。
北海道では、旧石器時代に続く縄文時代、続縄文時代(本州の弥生時代)は勿論、鉄器の流入が認められるオホーツク文化、そして鉄器の普及で道具が大きく刷新される擦文時代(鎌倉時代頃)にあっても、黒曜石が道具の素材として用いられ続けた。鉄器文化の流入が遅れたという見方もあるが、北海道にこそ黒曜石が豊富であったという証でもある。 白滝は、その主要な産地として重要な歴史的役割を担ってきた。
赤石川を中心とした白滝遺跡群は、旧石器時代の希有な大遺跡群であることは言うまでもないが、二万年間以上にわたって人類によって利用され続けた大規模な原産地遺跡、広い意味での歴史的産業遺跡としての特色がある。これほどの長期にわたって人類を支え続けた原産地遺跡は、世界的に見てもまさに希有な例である。しかも重要なことは、近年の破壊を受けることも無く、豊かな自然ともども殆ど手付かずの状態で残されている点である。
名実共に、人類の世界遺産として後世に残すのに相応しい遺跡群である。
白滝赤石山の黒曜石原産地と白滝遺跡群は、広大な未調査地域が残されている。無尽蔵?に包蔵されている人類の活動に関る情報を想うと、多くの謎を秘めた魅力溢れるフィールドであり続けるに違いない。
(「北の黒曜石の道・白滝遺跡群」 木村 英明著 抜粋)