擦文文化人の住居と墓
オホーツク文化人

 擦文文化の住居と墓・オホーツク文化

 オホーツク文化の住居を見ると、その中には狩りをした獣の骨を大事に積み上げた祭壇が設けられており、住居が敬虔な祈りの場でもあったことを強く実感する。

 擦文文化の場合にも、住居は単なる起居の場ではなく、建物を建てる際に柱の下に銭貨などを入れた跡がしばしば見つかるが、こうした地鎭儀礼に類した痕跡が旭川市錦町5遺跡で見つかっている。

 同遺跡では、四つの柱穴のうち二つから黒曜石が出土した。柱材が立ったまま腐ったことが確認されているから、黒曜石は柱を据える際、意図的に入れられたことが明らかである。

 擦文文化の墓も、住居と強く結びつく性格をもっていた。

@        擦文時代の「墓」は竪穴住居の壁に沿って作られている。

A        「墓」は竪穴の床面かその直上から掘り込まれている。

@        が意味しているのは、墓が住居の寝所に設けられたということ。A は人が住むのを止めた直後か、それほど時間の経っていない段階で、住居に墓が作られたことを意味している。

 人が亡くなるタイミングと、住居を廃棄するタイミングが一致することなど、火災でも無い限り想定し難い。

 日高や千歳・恵庭の近世初頭ころのアイヌ墓には、墓の周りに溝を巡らせたものがある。

 千歳市の梅川4遺跡でも墓が見つかったが、調査した田村俊之氏によれば、この墓の周りの溝は、溝ではなく竪穴なのだという。

 直径4mほどの竪穴を掘る。その中央に墓穴を掘り埋葬を行う。埋め戻した盛土で竪穴の中央部分が高くなる。その結果墓の周りに溝が巡っているように見える、という。

 千歳市のウサクマイN遺跡にも類例がある。

 擦文時代の千歳市末広遺跡

 墓は2m四方の小さな竪穴を堀り、その中に墓穴を堀り込んだもの。

擦文文化の墓と竪穴住居の強い結びつきからすると、この竪穴は竪穴住居を表象するもの。

 近世と擦文時代の竪穴墓の間に直接的な系譜関係があるとは思わない。だが、数少ない中世の墓が発見される常呂町ライトコロ川口遺跡

 を見ると、埋まりかけて擦文時代の竪穴住居の中にわざわざ墓を作っている。つまり、ここでも墓と竪穴住居の結びつきが認められる。

 ただし擦文時代の墓は、被葬者と竪穴住居の間に直接の関係が想定できたのにたいし、中世のライトコロの場合、埋葬が行われた擦文文化の住居と被葬者は直接の関わりがない。つまり埋葬を行う住居が現実の属性を離れた抽象的な存在に変化しているといえる。

 ところで、常呂町常呂川河口遺跡

 では、オホーツク文化の住居跡に擦文文化の墓が5つ堀り込まれている。

勿論擦文人である被葬者とオホーツク文化の住居に直接の関係はない。しかし、もし葬られた5人が擦文文化に同化したオホーツク文化人だったとすると、その巨大な六角形は彼らにふさわしい冥界だったことになる。

(旭川市博物館学芸委員 瀬川拓郎)