北の精霊と人

北の精霊と人と
(ひと・ゲノムの風景)

(小林 恒夫)

  北の精霊と人と(ひと・ゲノムの風景)(小林 恒夫)

   アバシリの語源は、一つは「チパ=幣場(ぬさば)」シリ=土地」

つまりイナウを捧げるところであり、一つは「アパ=入り口」又「ア・パ=は我々が発見した」とすれば、「シリ」は網走川からオホーツク海に出たところの帽子岩「カムイ・ワタラあ=神岩」を指しているのかもしれない。

  ついでに言えば、メマンベツ「メム・アン・ベツ=冷たい泉の湧く川」で、

ビホロは「ピポロ=水多く大なるところ」、又「ピ・ポロ・ベツ=石の大きい川」。

  モヨロは「モイ=入り江、ヨロ=あるところ」。

  すべてアイヌ語である。

    ささやかな私立資料館

  北の地に、少数のウイルタという人がいる。

  ウィルタ協会

  (ロシア人や日本人がサハリンにやってくる前から、北部にニブヒ(ギリヤーク)、北・中部にウイルタ(オロッコ)がすみ、南部にはアイヌがすんでいたといわれる。17世紀になって日本の松前藩が調査をはじめ、同じころロシア人の探検家もみられるようになるが、両者とも本格的な進出ではなく、このころは交易など中国・清朝の影響のほうが強かった。

18世紀にロシアの進出が積極的になると、江戸幕府は南サハリンに調査隊を派遣するようになった。そして1808(文化5)には間宮林蔵が海峡を確認し、サハリンが半島ではなく島であることを明らかにした。この海峡はのち間宮海峡とよばれる。

18552(安政元年12)、ロシアと日本は日露和親条約(日露通好条約)によってサハリンの共同管理をとりきめた。しかし、雑居化がすすみ両国民の衝突が多くなったため、樺太・千島交換条約(1875)をむすんで日本はサハリンを放棄した。その後、1905(明治38)には日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結の結果、サハリンは日本とロシアとで分割され、北緯50度以南が日本領、残りがロシア領となった。第2次世界大戦末期の45(昭和20)8月、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦すると南サハリンを占領した。翌46年には併合し、その後もソ連の支配はつづき、91年のソ連の崩壊以降はロシア連邦にひきつがれている。)

 モヨロとのちに呼ばれる人もいる。

 アイヌは、むろん北海道の先住民族である。

 北の川のほとり。それぞれの精霊も又、時を超えて生きている。

 はるかに知床の山並みが白い。そして広いオホーツクの海だ。

 空港進入路に向かっているジェット機の窓から茫漠の海を見て、ふと思い出す。

 小さな焼き玉エンジンの船だった。

 サハリンの港を脱出して稚内へ針路をとっていたはずが、宗谷海峡七ッ岩のあたりでながされた。 大時化(しけ)のなか、東南へ東南へ、紋別から網走の沖まで流された。

 実際に、海上を漂流しているときの精神状態は、山影が視界にあったためか、案外に能天気だったような気がする。

 半世紀以上も昔のことである。

  ウイルタの家

 網走市大曲。ゆるい流れの岸に葦が密生して、U字に大きくカーブする網走川のほとり。

 北方の少数民族資料館がある。

 今にも朽ちようとする色合いの壁はトドマツの丸太を縦に並べ、するどい勾配の屋根は丸太の平割り。

 建物の横に細い丸太を円錐に組んであるのは、ウイルタの冬の家らしい。

 ゴールデンウイーク明けの昼少し前、気温六度である。

  この資料館は1978年8月に建っている。

  初代館長だった北川 源太郎(ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ)さんに会ったのは、その初夏のことだった。

  「ウイルタって、本当はトナカイを飼っている人のことね。ジャッカは、宝物。ドフニは、入れる家。だいたいウイルタには熊祭りあるけれど、火祭り無いんですよ。それをオロチョンの火祭りなんて・・・・・ふざけちゃって、ウイルタのことをやるなら正しく残して欲しいというのよ、私」

  と昂ぶり、早口だった。快活で優しそうな風貌が、悲しげだった。」

 彼は戦争末期に徴用され、敗戦後はシベリアに送られた。

 そして日本に帰ってのち軍人恩給の支給を申請したが、ついに支給されること無く死去した。

  ウイルタは戦前のサハリン(樺太)ポロナイ川河口、オタスの杜(もり)でニブフ(ギリヤーク)などとトナカイの飼育をしていた。

  ツングース系少数民族である。(dairy.plalaブリヤード   ツングース

  (ニブヒ Nivkhi ロシア連邦のアムール川流域とサハリンにすむ人々。単数形はニブフ。かつてはギリヤークとよばれていたが、現在では自称のニブヒがもちいられている。人口は1989年に4400人。ニブフ語は、周辺民族からの影響がみえるが、まったくの孤立語であり、系統は不明である。サケ、マス、チョウザメ漁が盛んで、サケは冬の食料として乾燥貯蔵もされ、その皮を衣類などにも利用した。またアザラシなどの海獣狩猟も重要だった。交易のために毛皮獣の狩猟もおこなわれた。獲物の関係で夏と冬では居住地をかえた。父系氏族があり、外婚の単位となっていた。文化的には周辺のツングース系民族やアイヌと共通するものがみられ、たとえば熊の子をとらえて数年間そだてたのちに殺し、霊をおくりかえす熊祭りがおこなわれていた。)

  戦後、日本へ引き揚げてきたうちの十数人が網走で生活していたのだったが、現在、ウイルタを名乗るのは北川源太郎さんの妹、北川アイ子さん一人になっている。

  彼女は源太郎さんが亡くなったあと、ジャッカ・ドフニの二代目館長だが、今度訪ねてみると入院中だった。

  そして何故か、マスコミ関係との面会を強く拒否していると言うことだった。

  旅の道案内-ジャッカ・ドフニ-    北方 少数民族 資料館 ジャッカ ドフニ

ウィルタ - Wikipedia

  受付の青年が肩書きのない名刺を出した。

  犬塚康博さん。名古屋の博物館にいたが、ここが閉鎖になるしかないと聞いて、もったいないから来たという。ボランティアである。

  ささやかな私立資料館である。

  網走市からの補助はない。入館者は年に500人ということは、4月末から10月の会館期間中に一日平均3人弱しか入っていない。 暖房費も出せないわけである。

   展示品は約300点。削り掛けを まとう 木偶は、幸せを呼ぶ守り神セワ、削り掛けは削り花ともいうだろうか。 楊(やなぎ)やニワトコの枝を薄く削いでつくる。

  ウイルタはイラウ、アイヌはイナウと呼ぶ。神聖なものの標である。トドマツで囲んだ炉はフゥフ。嬰児を入れる揺籠はウモウ。ウイルタ文様はイルガ。それら様々なものを眺めていると、ウイルタは自然の民だったことが伝わってくる。

  大地の全ては天の恵みだった。だから、全てが共有。

  蓄えることも盗むことも、争うことも知らなかった。

  ウイルタ語には「戦争」「平和」「階級」「国家」などの言葉が無かった。そういう民族だった。

  極少といってもよいだろう北の民族の資料館は、実に悲しげに建っていて、入館者を待っている。

    アイヌ   アイヌ文化

  女満別の石刃鏃 

  国道三九号と網走川と道道二四六号が並ぶ。

  水田と小麦畑の間の道の先に松が一本。その根方に墓標のような碑が立っていて、周りに黒曜石の細片が散っている。

  碑には「豊里石刃鏃遺跡」の文字が読める。

  「昭和三十二年に大々的に発掘して、住居址が出た。この辺一帯、出るんですよ。鏃関係が多いんですけどね。網走湖に近い住吉というところから美幌町の美どりにかけて、 層になってるんです」

  土地の持ち主、山本守さんは祖父が大正の初めに徳島県から入植した。水田が約11ヘクタール。“白鳥もち”という糯米(もちごめ)をつくって、前年の収穫が10アール当たり550キロ、九俵。全部で約1000俵。

  「今日みたいに寒くても大丈夫。水の表面が凍っても大丈夫。強い稲だから」

  網走川は釧北峠に発して 女満別町で網走湖に流れ込み、網走市大曲で流出してオホーツク海に注ぐ。

  湖は汽水で海抜で海抜0m。海跡湖である。

  (潟湖 せきこ Lagoon ラグーンともいう。海岸にそって発達する砂州や砂嘴あるいは砂丘のようなせまくて低い土地で、外海から切りはなされている湖沼。ふつう海岸線と平行に広がっており、水深は全体として浅い。本来は海であった所が封じこめられたものであるため、海跡湖ともよばれる。たとえば、オホーツク海に面したサロマ湖、日本海側の干拓された八郎潟や島根県東部の中海などがある。また、低緯度で造礁サンゴの生育する所では、外洋に面しているサンゴ礁の外縁と陸域との間に礁湖とよばれる浅い水域が存在することもあるが、この礁湖のことをさす場合もある。)

  初夏、湖の呼人半島は

  (網走湖 あばしりこ 北海道北東部、網走市南西部と女満別町北部にまたがる海跡湖。海岸砂丘の発達によりオホーツク海から分離されて生まれた湖で、南北に細長い形をしている。網走国定公園の主要部をなす景勝地である。面積32.87km2、最大水深16.8m

南岸から網走川と女満別川が流入し、北東岸の湖尻から網走川を通じてオホーツク海にそそぐ。ふだんは淡水に近いが、冬季に北からの強風がふくと網走川が逆流して海水がはいる。東岸中央部に洪積台地の呼人(よびと)半島がつきでている。また、湖畔の温泉は泥炭層からわきだしてくるため、チョコレート色をしている。

ワカサギやシジミガイなどがとれ、北東岸にはサケとマスの孵化場がある。とくに冬季に氷に穴をあけてさおをたてる、ワカサギ釣りは有名である。呼人半島の台地上は耕地化され、リンゴ園なども造成されている。呼人集落近くの湖畔にはヤチダモ樹林の下にミズバショウの大群落があり、45月に乳白色の大きな花をさかせる。) 

  呼人半島はシラカバ越しに湖面が光り、ミズバショウは純白の苞。白い僧衣の群がり並ぶように。ときに陽が眩く、風は冷たい。

  その湖につながる川岸段丘上、約七キロにわたって、数千年前、石器を使う人達が住んでいた。

  今、山本さんは水田の合間にトラクターで畠をレーキングして、加工用ニンジンの種を蒔く。

  「発掘すると下の土が表面に出て、畠がダメになる。それで農家は発掘を嫌う。 教育委員会が一年だけ若干、補償してくれるけどね。そんなものでは全然追っつかない。うちは、身内のものが遺跡の関係をやっていたものだから、ま、仕方ないわってんで発掘した」

  ということです。

  出土した石刃鏃は、 女満別町教育委員会資料室に一括七六〇個が展示されている。

  それはブレード(ナイフ)、スクレーパー(?器)、石匙、石鏃など。黒曜石を縦長に剥離した剥片であり、細石刃は骨角製の柄に刃先をはめ込んで使った物らしい。それらが同時に出土した他の石器や早期縄文系土器と並んでいる。

  この豊里遺跡について、網走市専門委員の米村?英さんは、「中学1年の時、山本さんの家の周りを歩き回って怒鳴られた」と振り返る。

  米村さんは網走市郷土博物館の前館長である。

  「 女満別の石刃鏃は、縄文時代と無土器文化(先縄文)の境をなすような。 縄文早期というか。そういう時期の物です。大体八千年から九千年前です。石刃鏃は  石器時代   細石器   石鏃  

  石刃鏃は常呂川の一部、サロマ湖岸、北見市川西と釧路のテレビ塔の下と標茶(しべちゃ)に一カ所、発見されています。

  これは実は沿海州が故郷さのですね。それから沿海州からサハリンに渡って、北海道オホーツク沿岸の低地に、そして時期が少し新しくなると内陸に。

  黒曜石は、網走川上流津別町から置戸町にかけて一大鉱脈があります。それが転石となって網走川に流れる。

  湧別川流域上流の白滝村にも鉱脈があります。

  それで、沿海州あたりの石器原産地はじつは北海道白滝のものだということが、最近わかってきたのです。 ですから、これは僕だけの考えでしょうけれども。

  土器文化に入った早々に一つの大きな流れとして、北の方から一つの文化侵略がこの地にあるオホーツク文化というもので、北の文化がもう一度この地域に影響を及ぼしているのです」

  それは、恐らく正しい考察に違いありません。

  オホーツク文化というのは、モヨロ貝塚に代表される遺物による呼称である。

   網走の考古学者

  網走の米村さんは著名である。

  父の米村喜男衛が理髪店を経営しながら、網走川河口のモヨロ貝塚を発見発掘して、貴重な遺跡として保存し、史跡名勝天然記念物の指定を受け、独力で郷土博物館をつくった。

  その志を二代目の哲英さん、三代目の衛さんが継いでいる。

  米村喜男衛氏は十七・八歳頃に既に日本人類学会の会員であった。そして大正二年、21歳のときに網走川河口の貝塚を発見して、モヨロ遺跡と名付けている。

  郷土博物館を作ったのは昭和11年。

  建坪480坪、一部3階のモダンな建物。44歳になっていた。

  「その頃は、中央の先生方は殆ど来ていました。うちに泊まって親父に案内してもらっていました」

  社団法人北見教育会という組織を作り、会長に網走支庁長。喜男衛氏は理事の一人になっていた。

  それが、戦時中に大政翼賛会に絡んでいたこともあり、昭和21年に解散。網走市に移管されたのだった。しかし、市立とはいっても市の負担は運営管理費だけで、修蔵庫もつくれないままだった。

  「僕の若い頃、東京の国立科学博物館にいたのですが、おやじが帰ってこいというので戻りました。

  そして、国立の北方民族博物館を作ろうと考え、それなりの運動はしましたが出来ませんでした。

  そのうちに市内天都山に北海道立北方民族博物館が出来ることになって、その素案は全部私が作りました。

  うちの北方関係の資料も、保存が難しい物は全部寄託するということで。あらかた道立へ移りました。勿論、うちに残す物は残っているし、特にオホーツク文化を中心にモヨロを含めて物を発展的に拡充していく予定ですけれど」

  アバシリの語源は、一つは「チパ=幣場(ぬさば)」シリ=土地」

つまりイナウを捧げるところであり、一つは「アパ=入り口」又「ア・パ=は我々が発見した」とすれば、「シリ」は網走川からオホーツク海に出たところの帽子岩「カムイ・ワタラあ=神岩」を指しているのかもしれない。

  ついでに言えば、メマンベツ「メム・アン・ベツ=冷たい泉の湧く川」で、

ビホロは「ピポロ=水多く大なるところ」、又「ピ・ポロ・ベツ=石の大きい川」。

  モヨロは「モイ=入り江、ヨロ=あるところ」。

  すべてアイヌ語である。

  モヨロ貝塚の人

  網走市立博物館は桂ヶ岡公園にある。

  ここはアイヌのチャシ(砦)跡として1935年に史跡に指定されているが、サクラの名所でもある。  エゾヤマザクラ。5月中旬。他にはカエデとオヒョウの木が多い。

 

   (ハルニレ(春楡) 被子植物双子葉類、ニレ科の落葉高木。北海道から本州まれに四国(北部)、九州に分布し、山地に生える。高さは2030m、直径1mに達する。樹皮は灰褐色。幹にはしばしば縦に割れ目ができる。葉は互生し、短柄をもち、縁には重鋸歯がある。開葉前の34月ごろに、古い枝の上に帯黄緑色の細かい花がむらがって開く。果実は扁平で、膜質の広い翼があり、56月に熟す。材は建築や器具、細工物などに利用される。)

   オヒョウはハルニレ。

  アイヌはこの樹皮でアッシ(厚司)という衣服を織った。

  米村さんに館内を案内してもらった。  モヨロ貝塚   モヨロ貝塚

 その後、網走川河口左岸のモヨロ貝塚に向かった。

  一見すると、貝塚は樹林の中の深草に覆われた平地である。だが、その地下に三重、四重の層があって、各時代の遺物があるというのだ。

  それを解りやすく見せているのが郷土博物館分館のモヨロ貝塚館。

  例えば、貝塚第三地点の地下三mの火山灰や土層には縄文早期の貝殻文土器と、黒曜石の石器、砂岩砥石がある。

  又、貝塚第一地点の貝層の下には、人骨頭部に甕を乗せた上を平石で噴き、オホーツク式土器や骨器を添えた墳墓がある。

  貝塚最上層には、頭部に割った鉄鍋と刀、玉、煙管(きせる)などを置いた迎臥伸葬のアイヌの人骨がある。

  貝の層は厚さ1mほどのシジミの層が斜めに走っている。

  「オホーツク文化と呼ばれるモヨロ文化は、大体千二百年ぐらい前から七、八百年前です。

  北海道では擦文文化と呼ばれる、最後の土器文化があったわけですけれど、それに吸収されて消滅するわけです。

  大陸の文化が大和朝廷に入り、北進する。その刺激によって、擦文文化が土着であったアイヌの人達に影響を及ぼして土器文化が無くなり、鉄器文化に入るという形になった。

  北見アイヌ、特に美幌アイヌ。

  (美幌町 びほろちょう 北海道北東部、網走(あばしり)支庁網走郡中部の町。西は北見市に接する。西部を網走川が北流し、東部を北流してきた美幌川が合流する。合流点に市街が発達し、阿寒国立公園の玄関口の交通の要地として幹線道路が集中する。1923(大正12)町制施行。町名はアイヌ語のペポロ(水の多い所)からという。面積は438.36km2。人口は22942(2005)

ピラオツマッコウマナイチャシ遺跡は縄文時代中期の遺跡で、竪穴(たてあな)住居跡や土坑などがみつかり、多くの石器や土器が出土している。土器の中には、この時期の北見地方と釧路地方の文化的接点をしめすものがあった。アイヌ文化期のチャシといわれる遺跡も数多くある。1856(安政3)に当地方を探査した松浦武四郎はビホロにコタンがあり、5戸、20人が居住すると記録し、明治初期まで住人はすべてアイヌであった。

明治30年ごろから入植、開拓がはじまり、1904(明治37)美幌神社が建立された。大正期には農業開発にくわえ、麻の工場が操業を開始し、人口も大幅に増加した。34(昭和9)美幌峠をふくむ阿寒一帯は国立公園に指定され、屈斜路湖の景観を一望できる美幌は観光地となった。さらに53年、映画「君の名は」のロケが美幌峠でおこなわれ、注目をあつめた。現在では、主産業である農業の近代化や機械化は道内でもすすんだ地域のひとつとされ、小麦やタマネギの産地として知られる。)

  東のオホーツク沿岸のアイヌの人達の頭蓋骨をみると、モヨロとアイヌは非常に近い。 混血ではないか、と思われる。 土器の文様を見ても両者の結びつきは非常に強い。

  シベリア沿海州の古原住民の頭蓋骨ともモヨロに近い。似ているのです」

  昭和二十年、第二次世界大戦が終わった直後に、アイヌ語学者の金田一京助氏が米村喜男衛氏の案内でモヨロ貝塚を訪ねて歌を詠んだ。

  「於不津(おふつ)くの  もよろのうらの夕凪に、 いにしよ志のび  君と立つかな」

  米村?英さんは、「もう一度、私の考えですが」といった。

  「北からの進入が、大きく分けて三度あった。第一波はマンモスハンター。第二波は石刃鏃文化。第三波がオホーツク文化です。そして最後が、地元の擦文人と混血するのです」

  流氷の海で海獣を追っていただろうモヨロ人は、多分、土着のアイヌの中に溶け込んだのである。

北の精霊と人と(ひと・ゲノムの風景)(小林 恒夫)

    モヨロ貝塚 モヨロかいづか 

北海道網走市にあるオホーツク文化の代表的な集落、貝塚、墓地遺跡。網走川河口付近の砂丘上にあり、貝塚の存在は明治中ごろから知られていたが、大正期に米村喜男衛(きおえ)らの調査および保存活動によって広く知られるようになり、1936年(昭和11)には国の史跡に指定された。

   1941年に数百体の人骨が発見され、47年から数次にわたり、東京大学、北海道大学などが網走市立郷土博物館と共同調査をおこない、10以上の竪穴住居跡や貝塚を発掘した。

   米村らの調査では竪穴住居跡が27確認され、上流部の住居跡は縄文時代晩期から続縄文時代(→ 続縄文文化)ので、河口部はほとんどがオホーツク文化期のものと推定される。貝塚と墓はオホーツク文化期のもので、甕(かめ)形土器を被葬者の頭にかぶせた墓、石を左右におく墓、木棺をつかった墓などが発見された。出土人骨は北西頭位の仰臥(ぎょうが)屈葬が特徴的で、モヨロ貝塚人と命名された。人骨鑑定の結果、アイヌ民族とは別種のエスキモー・アレウト語族かともいわれる(→ イヌイット)。

  出土した土器は、細い粘土紐を何重にもはりつけた「そうめん文」をもつ厚手の深鉢が多い。ほかにも、石器や鉄器、骨角器、玉(ぎょく)類や大陸伝来の青銅鈴などが発掘された。

     現在、遺物類は網走市立郷土博物館に保管、展示され、現地にある同館分館のモヨロ貝塚館では、貝層部や竪穴住居跡の一部が復元されている。

   オホーツク文化

    オホーツクぶんか 北海道のオホーツク海沿岸や千島列島にみられ、奈良〜平安時代に並行する文化。クジラ・オットセイなど海獣の狩猟や漁労を中心に生活していた。住居跡は五角形か六角形で長軸10m以上の大型のものもあり、床面積は70〜80m2とひろい。1つの住居に数家族が居住していたと考えられ、これは生業形態とも関係すると思われる。住居の奥にはクマやシカの頭骨がまつられ、柱にクマの彫刻があることから、アイヌの熊祭りの源流がここにあるともいわれている。

  網走市のモヨロ貝塚は戦前から知られた遺跡で、住居跡や石器・金属器・骨角器などを副葬する多くの墓が発見された。これらの墓は長軸1〜1.5mの土坑に頭を北西においた屈葬(くっそう)で、頭か胸の上に土器を埋納するものもある。この文化は、骨角器や石器にサハリン(樺太)やアムール川流域の文化と密接な関係があることが知られ、発見された人骨はアイヌ民族系統でなく、モンゴロイドで極北地方にすむアレウト族かともいわれている。

 

   遠軽町 えんがるちょう 

  北海道北東部、網走支庁紋別郡の町。北は紋別市と接し、湧別川(ゆうべつがわ)の中・上流域にある。北東部の遠軽市街西に町のシンボルとなる瞰望岩(かんぼういわ)がそびえ、その岩のアイヌ語名のインガルシ(見晴らしのよい所)が語源となって町名がつけられたという。1934年(昭和9)町制施行。2005年(平成17)10月1日に同じ郡の生田原町(いくたはらちょう)、丸瀬布町(まるせっぷちょう)、白滝村(しらたきむら)の2町1村と合併した。面積は1332.32km2(一部境界未定)で全国有数の広さをもつ。人口は2万4161人(2004年3月時点の合計)。

    南西部から北西部にかけては、武利岳(むりいだけ。1876m)、天狗岳(てんぐだけ。1553m)、北見富士(1307m)など大雪山系と北見山地南端の山々がそびえ、町域の大部分を国有林などの山林地帯が占める。オホーツク海にそそぐ湧別川とその支流の生田原川、武利川、丸瀬布川流域に平坦地(へいたんち)が樹枝状に広がる。人口の集中する北東部の遠軽地区は、古くから湧別川流域にある紋別郡町村の行政、商業の中心をなした。旭川と網走をむすぶJR石北本線がはしり、国道242号が南北に、333号が東西にのび、高規格幹線道路(→ 高規格道路)の450号(旭川紋別自動車道)が通じている。

  主産業は農林業で、1956年(昭和31)に集約酪農地域の指定をうけてから畜産業が盛んになり、とくに肉牛飼育は現在も年々拡大傾向にある。テンサイやトウモロコシ、ジャガイモ、アスパラガスなど寒地耐冷作物や、エノキタケ、シメジなどキノコ類の栽培もおこなわれる。工業は広大な森林資源をバックに林産加工が盛んで、楽器材や製材、集成材のほか、割り箸(わりばし)、薪炭など多彩な木製品を生産。ピアノの鍵盤製造(けんばんせいぞう)では世界的に有名で、海外にも輸出される。木楽館は木工品の展示や研修などをおこなう林業の需要開発センターとなっている。

      湧別川の流域で旧石器時代(→ 石器時代)の遺跡が発見されており、巨大な石器や露頭がみつかった黒曜石の一大原産地の白滝遺跡群は国の史跡に指定されている。1897年(明治30)、北海道にキリスト教にもとづく理想郷を建設することを目的として北海道同志教育会が遠軽地区に学田農場を開拓。農業収益をもって大学の創設をこころみたが、経営は困難をきわめ、明治末期に会は解散したが、のちにハッカ栽培に成功、網走地方一帯をハッカの大産地とする礎(いしずえ)をきずいた。また、大学の創立は頓挫(とんざ)したが、1914年(大正3)、キリスト教の精神による少年教護施設である北海道家庭学校が開設された。

  20世紀初頭から生田原地区には新潟県から、丸瀬布地区には宮城県や奈良県などから団体入植者があり、他地区でも本格的な開拓がはじまった。白滝地区には合気道の開祖である植芝盛平が和歌山の団体をひきいて入植をはたしている。

    女満別町 めまんべつちょう 

  北海道北東部、網走支庁網走郡北部の町。北は網走市に接し、市町境に網走湖がよこたわる。大部分は藻琴山(もことやま)の火山灰がおおう洪積台地からなり、網走川と女満別川が南北に貫流する。1951年(昭和26)町制施行。町名はアイヌ語のメムアンペッ(泉のわく川)によるという。面積は159.24km2。人口は5896人(2005年)。2006年(平成18)3月31日、同じ郡の東藻琴村(ひがしもことむら)と合併して大空町(おおぞらちょう)になった。

   高い日照率と肥沃(ひよく)な平坦地にめぐまれ、ムギやテンサイ、ジャガイモなどを産する畑作主体の農業が主産業である。河川流域の低地は稲作の北東限地帯で、丘陵地では肉牛飼育や酪農もおこなわれる。冬のワカサギ氷下漁が名高い網走湖は、ワカサギやコイなどの養殖に重点をおいた内水面漁業をいとなむ。中部にジェット化された女満別空港を有し、札幌や東京、名古屋、大阪などの大都市とむすぶオホーツク圏の空の玄関口として機能している。

 

    常呂町 ところちょう 

 北海道北東部、網走支庁常呂郡北部の町。北はオホーツク海に面し、東は網走市、南は北見市に接する。町の西北端部にサロマ湖があり、オホーツク海とは東西約14km、幅150〜1000mの砂嘴によってへだてられている。1950年(昭和25)町制施行。町名はアイヌ語のトコロペッ(沼をもつ川)によるという。面積は278.29km2。人口は4900人(2005年)。2006年(平成18)3月5日、北見市、常呂郡の端野町(たんのちょう)、留辺蘂町(るべしべちょう)、常呂町の1市3町が合併して新しい北見市となった。

     遺跡の多い町として知られる。サロマ湖東岸からオホーツク海に面した海岸砂丘に常呂遺跡があり、約2500の竪穴(たてあな)住居跡が表面観察でき、国の史跡である。縄文時代晩期から擦文文化、オホーツク文化期の集落跡や石器、土器などが出土する。近世中期には松前藩の商場(あきないば)とされ、和人(本州系日本人)にとってはめずらしい品物がだされる交易場として知られた。

   1895年(明治28)ごろから入植がはじまったが、常呂川の氾濫による洪水になやまされた。1919年(大正8)の洪水を機にすすめられた常呂川治水工事計画は、堤防工事や土地改良のための排水溝工事が37年までつづいた。昭和10年代に鉄、マンガンを中心にした日吉鉱山の操業を開始したが、64年に閉山。現在はビート、ジャガイモ、小麦などの畑作と畜産、サロマ湖でのホタテやカキの養殖、オホーツク海でのサケ、マス漁が盛んである。また、網走国定公園にふくまれる観光地でもある。オホーツク海の流氷は、1月中旬ごろ接岸し、3月中旬ごろまで完全結氷する。サロマ湖の砂嘴にあるワッカ原生花園では、初夏にエゾスカシユリ、エゾキスゲ、ハマナスなどがさきみだれる