サハリンアイヌと オホーツク文化

       アイヌとは?

   サハリンアイヌとオホーツク文化

   オホーツク文化とアイヌ文化

  アイヌ 東アジアの少数民族で、現代ではおもに日本の北海道に居住している。アイヌとはアイヌ語で「人」を意味する。19世紀まで日本の歴史上では蝦夷とよばれ、アイヌという名称が定着する以前には、アイノといわれたこともある。また、アイヌ語で同胞を意味するウタリという名称をつかうこともある。

  かつては、ロシアのサハリン(樺太)やクリル諸島(千島列島)にも居住し、それぞれことなる文化をもっていた。しかし、サハリンアイヌは第2次世界大戦後北海道に移住し、クリルアイヌも樺太・千島交換条約により強制的に移住させられたため、現在ロシア国籍のアイヌは12人しか確認されていない。

日本国内にすむアイヌは、北海道に約24000人、首都圏に4000人ほどという統計がある。サハリンアイヌの文化は若いころの記憶を保持しているわずかの人に伝承されているが、同化政策の弊害により人口を激減させたクリルアイヌの文化を継承している人はいない。北海道にすんでいたアイヌも、本州以南から移住してきたいわゆる和人とはことなる文化や言語をもつが、現在では日常的には一般的な日本人とかわらない生活をしている。

   アイヌ語は、いくつかの単語をのぞくといまでは日常会話としては使用されず、流暢(りゅうちょう)に話せる人もほとんどのこっていない。しかし、口承文芸や神への祈り詞(いのりことば)、古式舞踊にともなう歌謡などは、伝統的な儀式や民族文化復興の催物などでアイヌ語でかたられ、うたわれている。また、会話は公的には道内14カ所で開かれているアイヌ語教室でおしえられ、ラジオ放送などでも復興や普及がはかられている。

和人との歴史的関係において、アイヌ民族独自の文化の継承は困難をきわめ、アイヌ自身が自文化の近代的変容の方向を決定することができなかった。政府は長い間日本国内における少数民族としてのアイヌの存在をみとめなかったが、1997(平成9)71日アイヌ新法が施行され、アイヌ民族の歴史は新たな段階に入った。

       歴史

    北海道では、縄文文化のあとに続縄文文化が展開し、さらに本州の影響を強く受けて擦文文化に移行した。現在知られているアイヌ文化の基本は、擦文文化のあとにみられ、考古学的にアイヌ文化期とよばれるのは13世紀以降とされる。擦文文化に吸収されたと考えられるオホーツク文化にはアイヌ文化に連続する要素がみられるが、遺跡出土人骨を研究する形質人類学(→ 人類学)では、縄文人とアイヌとに直接の形質的なつながりがあるという見方が定着している。

アイヌ民族がいつ成立したかについては、民族全体のアイデンティティの成立をめぐって意見の相違がある。しかし、15世紀半ばには、渡島半島においてアイヌと和人との戦争がおこなわれたという記録がのこっている。大規模な戦いはコシャマインの戦とよばれ、アイヌ側は敗北した。しかしその後も蜂起はつづき、優勢なアイヌに対して和人側は講和の際に指導者を謀殺することで終息させている。16世紀半ばになると、蠣崎(かきざき)氏がアイヌ首長と交易についての協定をむすび、和人側の体制をととのえた。

   和人との関係は、当初は交易も対等で、政治的な支配もうけていなかった。しかし、北海道の資源の重要性がますにつれ、アイヌの労働力は和人商人による場所請負人支配下の産業にくみこまれ、強制的な移住などにより、従来のアイヌ社会の維持が困難になっていった。

また、アイヌ内部の紛争や略奪戦もみられた。ちょうどチャシとよばれるアイヌの遺跡が砦(とりで)としてつかわれた時期で、17世紀半ばにはシャクシャインの戦、18世紀後半にはクナシリ・メナシの蜂起がおきた。その経緯をしめす史料は和人側の記録であるため、アイヌ側の実態を知ることはむずかしいが、これらの戦いはいずれもアイヌ社会内部の葛藤(かっとう)をかかえこみながら発生。最終的にはアイヌ側が敗北し、松前藩の支配を政治的にも経済的にも強める結果をもたらした。

幕府はクナシリ・メナシのアイヌの背後にロシア人がいるのではという懸念から、蝦夷地を直轄地(→ 天領)にしたが、それはアイヌ文化の強制的改変を意味した。まもなく最初の幕領期は終了するが、再度の幕領期に改俗政策は本格化した。アイヌは抵抗したが、和人と接触する度合いの強い地域から日本語の使用、髪形や衣服などの日本化がすすんでいった。

近代国家の成立にともない、アイヌは日本国民とされたが、幕末以来の北海道開拓により、伝統文化の精神継承の基盤となる山林や河川をうばわれ、生活も困窮していく。しかし、アイヌの窮状に対する国の施策には先住民族の権利や少数民族への配慮はまったくなかった。1899(明治32)には北海道旧土人保護法が制定され、アイヌは旧土人という名のもとに差別的に「保護」された。教育もアイヌ児童だけをあつめた旧土人学校で日本語による教育が実施され、民族教育はまったくおこなわれなかったほか、学習課程も差別的に低く設定された。

農業や漁業経営、牛馬の飼育などに成功した人もいないわけではなかったが、これらの差別的施策により、大部分は民族としての誇りすらもてない境遇におちいることとなった。20世紀前半になって、自民族の過去と将来を自覚する機運が高まり、生活改善運動や差別からの解放運動などがしだいに組織化されていく。戦後は、1961(昭和36)に設立された北海道ウタリ協会を最大の組織として、民族の復権をもとめている。北海道旧土人保護法にかわる念願のアイヌ新法制定は実現したが、その真の評価は今後にかかっている。

     伝統文化と生活

アツシ(衣服)

   アツシはアイヌの伝統的な衣服で、オヒョウなどの木の内皮を繊維にしておった樹皮衣の一種である。これは大正から昭和初期に北海道アイヌが着用していたアツシで、紺・白・青の木綿糸をおりこんだ縦縞地に、袖口、背、腰回りに紺木綿をおき、アイヌ独特の切伏文様(きりぶせもんよう)が刺繍されている。

   今日よく知られているアイヌの伝統文化はおもに1820世紀初頭のもので、同じ事柄でも地域や時期によりことなるため、一元化することはむずかしい。基本的には本州からの和製品を重要な要素とした物質文化であり、儀礼や生活慣習、言語の面にも和人文化の影響をうけながら独自の民族文化が形成された。

生業の基本は狩猟と漁労、採集で、ヒエ、アワ、ダイコンなどの農耕もおこなわれた。狩猟の対象となる鳥獣は多種にわたるが、自給用と交易品としての需要があった。とくにシカの比重は大きく、海獣猟もおこなわれた。漁労では河川のサケマス漁が圧倒的に重要で、老人や女性、子供も従事し、加工して貯蔵した。採集では、デンプンをとるためのオオウバユリ(→ ウバユリ)の根茎がもっとも重要で、採集加工は女性の仕事とされた。食用となる植物の知識や調理技術はひじょうに豊富だった。

獲物のオットセイをはこぶアイヌ

   アイヌの人々は、漁労や狩猟、採集が生業の中心だった。北海道アイヌにとって、漁業の中ではサケマス漁がもっとも大切な漁だったが、海獣漁もおこなわれた。これは捕獲したオットセイを舟からおろしているところ。この江戸後期の「蝦夷島奇観(えぞとうきかん)」には、ほかに海上のオットセイに舟で近づき、離頭銛(りとうもり)をつかって漁をする姿なども描かれている。

   服飾としては、独自の衣服に獣皮衣、樹皮衣、草衣、魚皮衣がある。樹皮衣はオヒョウニレやハルニレ、シナノキなどの内皮の繊維を反物におって縫製したもので、アツシとよばれる。これらは、本州以南の樹皮衣文化の北端に位置づけられる。また、サハリンではイラクサの繊維からレタルペがつくられており、魚皮衣もあるが北海道では知られていない。いずれもシベリアの衣服文化との関連上にある。

衣服はサイズを別にすれば形態上の男女差はないが、女性用の衣服としてモウルという木綿の室内着(膝丈のワンピース)があり、本来はやわらかい鹿革製であった。また、海鳥などの羽毛がついた鳥羽衣は、クリルアイヌの遺品にみることができる。本州産の木綿衣や絹衣の古着も、アツシや服飾小物とともにアップリケや刺繍で装飾され、晴着とされた。アクセサリーとしては、男女ともに耳環をつけ、ガラス玉の首飾りは女性の宝物であった。また、儀式のときには正装として男性は陣羽織を身につけた。

アイヌの長老

   1908(明治41)に撮影されたもので、北海道沙流郡(さるぐん)の平取村(現、平取町)のアイヌである。平取村は日高地方のアイヌの中心地で、当時は500人ほどいた村の人口の大半がアイヌだった(1910年の村人口では574人中、413)

   道具類としては、本州でつくられた漆器を祭具としてもちいたほか、宝物としても珍重された。男性の工芸としては木彫があり、マキリ(小刀)や山刀の鞘(さや)、食器、調度品などをかざった。また、人と神との橋渡しをする棒状の儀式用具、奉酒箆(ほうしゅひ)にもさまざまな彫刻がほどこされている。なお、よく知られている熊彫りは20世紀になってからの工芸品である。ガマの茎であんだ茣蓙(ござ)や樹皮製の籠類など、女性の手工芸も比較的よく伝承されている。継承の意欲も盛んで、うしなわれた技術の復元もおこなわれている。

楽器ではムックリとよばれる口琴やトンコリという五弦琴がよく知られている。舞踊は、本来は何らかの儀式のときにおこなわれるものだが、現在は各地のアイヌ古式舞踊の保存会が国の重要無形民俗文化財に指定されており、公演もおこなわれている。

住居はチセとよばれるが、地方によって茅葺き(かやぶき)、笹葺き、樹皮葺き、半地下式などがある。家の中心には炉があり、火の女神は人間の生活の守護者としてもっとも尊敬された。また、炉の周りの座の位置や、家屋内の空間に関するしきたりもあった。茅葺きの家は1950年代には姿をけしたが、各地の博物館施設で復元展示されている。

  家族と社会

  

アイヌの飼い熊送りの儀式

  アイヌの飼い熊送りの儀式(イオマンテ)は、神々の国からつかわされた熊神を歓待してふたたび神の国におくる神送りの儀式である。熊神への供え物を用意して一定期間飼育した熊を檻(おり)から出し、歓待の円舞を舞う。その後、熊に仮装していた神が霊魂となって神の国にかえれるように熊を解体して祈り詞をささげる。ここでは、飼育して大きくなった熊を檻からひきだしているところが描かれている。

    アイヌの集落では、核家族が1軒の家にすみ、2世帯の同居はおこなわれなかった。また、結婚した子供が親の家の近くに新居をもうけたり、老人の独居小屋がもうけられることもあった。一般的な通婚圏は、脊梁山脈(せきりょうさんみゃく)をこえない範囲といわれる。出自に関しては男系と女系の両方が意識され、母方が同系の男女は結婚できないとされた。

女系の象徴として、植物繊維であまれたウプソロ(ポンクッ)という腰にまく下紐がある。これは女性にとっての一種の「御守」で、系統によって紐の数や長さなどつくり方がちがい、母から娘に伝承された。男系にはイトクパという家紋(→ 紋章の「日本の紋章」)のような印が、父から息子へつたえられた。入れ墨も男女ともにおこなわれたらしいが、とくに女性が口の周囲にほどこす入れ墨は独特である。

子供は56歳まで命名されず、人格がみとめられると個性的な名前をつけられた。そのため、アイヌには同名者はほとんど存在しない。最小の社会はコタンとよばれる集落であるが、それ以上の社会を意味するアイヌ語はない。また、飼い熊送りの儀式(イオマンテ)は北方諸民族に広くみられる熊祭りの中でもっとも発達した形式をもち、アイヌの文化や社会が凝縮されている。

アイヌ民族への関心は、当初は日本国内より欧米で強かった。東洋へ進出した欧米人は蝦夷という民族について伝聞していたが、17世紀にイエズス会宣教師アンジェリス、カルワーリュが松前におもむき、蝦夷に関する報告書を教会に提出した。その後、日本近海に到達した航海者たち(ド・フリース、クルーゼンシュテルンら)も、アイヌに出あったときの記録をのこしている。

19世紀末から20世紀前半にかけては、ヨーロッパの知識人の間でアイヌが人種的に白人の系統であるという説を背景にアイヌへの関心が高まり、当時各国で開催された万国博覧会(→ 博覧会と展示会)にアイヌがつれていかれた。また、英語のガイドブック「日本旅行案内」にもアイヌ関連記事が掲載されていた。日本の言語学の基礎をきずいたお雇い外国人のひとりであるチェンバレンは、日本の地名をアイヌ語起源で説明し、大きな影響をあたえた。

シーボルトやピウスツキをはじめとする当時の欧米人によるアイヌ民族資料コレクションに対して、最近本格的な調査がおこなわれるようになり、しだいに日本には所蔵されていないサハリンやクリルのものも知られるようになってきている。日本では、札幌市の北海道開拓記念館、函館市立博物館、白老町のアイヌ民族博物館、平取町立二風谷博物館、東京国立博物館などにまとまった民族資料がある。