亀田半島と白神岬
道南の渡島半島は、南側で東西2つに分かれている。東側は亀田半島、西側は松前半島と呼ばれる。北海道の最南端は、松前半島の松前町にある白神岬。白神岬は、青森県の下北半島より南にある。JRの津軽海峡線は、青森県の津軽半島から青函トンネルでこの白神崎の東側を通り、知内(しりうち)町で陸に顔を出す。
白神岬に向かう国道228号線は、トンネルと覆道の連続する道。覆道の途切れたところに駐車場があり、白神岬という石碑がある。天気さえよければ、津軽海峡をはさんで津軽半島、下北半島、そして北海道の亀田半島も見ることができます。
本州最北端の大間町から、津軽海峡を挟んで北海道汐首岬まで、わずか17.5qしか離れていません。対岸の景色がはっきり見える。地元の人には縄文の昔から、津軽海峡は陸奥湾を含めて「内海」と見ている。 しかし実際に目で見なければ、実感できない。
石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が大好きです。水上勉「飢餓海峡」のイメージも強烈に残っている。しかしあくまでもそれは、虚構の世界のことです。穏やかな山並みに囲まれた「内海」のように、爽やかで明るい。
司馬遼太郎は「街道を行く・北のまほろば」で、下北半島を「諸文化が混在する地」と特徴づけ、縄文時代や擦分文化、8世紀から13世紀ごろまで北海道オホーツク沿岸に住んでいたオホーツク人の土器発見の話、前9年合戦や関が原合戦に参加させられた先住のアイヌの話、蝦夷錦や松前藩の祖・蠣崎氏の出身の話、北前船や諸国からの移住者、幕末の斗南藩(旧会津藩)の話、イタコやマタギなど、盛り沢山に紹介しています。
オホーツク人は靺カツ人で、奈良朝時代に、沿海州あたりから海獣を追って北海道オホーツク沿岸に住んだ人々です。本州から北海道に移り住んだアイヌ人に文化的影響を与え、鎌倉時代に消えてしまった「不思議な」民族です。司馬は「街道を行く・オホーツク街道」で、オホーツク人とその遺跡発掘に関わった人々に、深い愛着を持って詳しく紹介しています。そして日本人の血に、幾分かでも彼らの血が混じったに違いない、と浮き浮きしながら語っています。
昆布、干しアワビ、イリコなど、「長崎俵物」や京・若狭への交易品の産地であっただけではありません。ヒバ(檜科のアスナロ)や鉄の産地であり、交易品としてだけではなく造船も盛んでした。
そういう歴史を見る時、経済学的に考える癖が身についてしまって、支配階級である役人の役割、産業のネットワークを作り出した事業家たちの働き、雇われていた民衆の生活ぶりが知りたくなります。 産業構造の変化につれて、集積地が移り、栄枯盛衰を繰り返す。人々もまた、一ヶ所に留まることができず、移動や出稼ぎによって糧を求める。
下北半島に生きた人々が営んだ産業や生活を、美しい風景に重ね合わせています。下北半島は沿岸部に沿って発達していて、恐山山地の内陸部は川沿いにさかのぼる道しかなっかたでしょう。今も山稜をつなぐ道は少ない。
(或随筆の一節)