道央部のアイヌ文化
(田村 俊之 千歳市教育委員会埋蔵文化財センター)
発見されたアイヌ文化の遺跡
道央部では昭和50年代の初頭から今日まで新千歳空港建設、横断自動車道路建設など、大小様々な公共事業や開発事業に伴って遺跡の発掘調査が実施されてきた。
旧石器から近世に至る各期の遺跡が調査され、数多くの遺構と膨大な量の遺物が出土し、アイヌ文化の遺跡も相次いで発見された。
千歳の川には石が無いと言われる。確かに川辺を歩いても、石の転がる河原は存在しない。
河床に目を懲らすと、今から約42,000年前に大噴火した支笏火山(現支笏湖はこの火山のカルデラ湖である)の火山灰が、溶けて固まった凝灰岩製の平たく滑らかな石を見つけることができる。
地層の断面を見ると、幾重もの火山灰が堆積している。
河原に石が無い理由は、千歳の大地が火山灰によって成されたことによる。
これらの火山灰は、発掘調査において非常に大切な年代の指標になる。
大地を覆った火山灰は、同じ時を広い大地に刻んだ時計になっているのである。
例えば、北海道と沖縄の遺跡で同じ火山灰が発見されたなら、その火山灰直下の地面は、同じ時を共有出来るのである。
勿論火山灰の降った年代が判明すれば、実年代を共有することになる。
火山灰は、時を示す指標物として極めて重要な存在である。
千歳では、このような火山灰の上下から、人々の暮らしの証である遺跡が数多く見つかっている。
アイヌ文化の遺跡も、1739年に噴火した樽前山の厚さ約70~80cmに達する火山灰(樽前a)に覆われている。
この火山灰を剥ぐと1739年(江戸時代中期)の地面が現れる。
場所によっては、1667年に噴火した樽前山の火山灰(樽前b)が堆積しており、1667年(江戸時代前半)の地面も確認できる。
水没した古潭・コタン=美々8遺跡
千歳市と苫小牧市の境を流れる美沢川の左岸に立地する遺跡である。
新千歳空港建設に伴い数度に亘って調査された。
平成元年に樽前a火山灰の下から川に向かって斜面を降りる遺跡が発見去れた。
川縁の道脇には建物の跡も確認された。
これは北海道の名付け親である幕末の探検家、松浦武史郎が「再航蝦夷日誌」に記した「ビビ小休所」と一致し、同日誌の付記されている「ミミ憩所船乗場の図」に描かれている小屋と判断された。
発見された遺跡は川の中まで続き、試掘調査を行った結果、水中に遺跡(低湿地遺跡)の存在が確認された。
1989年から始まった発掘現場の様子は、これまでと全く異なっていた。
すり鉢状に深く掘られた現場では、泥炭特有の臭気が漂い、足元から常に水が湧き、水を吸い上げる大型ポンプのモーター音が一日中響いていた。
調査は水と時間との戦いであったが、調査に従事した人々の奮闘により、これまで、伝世品でしか見られなかった300年程前の木製品や繊維製品が、多数発見されたのである。
その多くが、当時のアイヌ文化の実像を明らかにする重要な調査となった。
発見された木製品は、家屋の建材や高床式倉庫の梯子、
船の側板や櫂
銛先、炉鈎、カンジキや花矢など多種多様のものがあった。
又、アイヌ語で「タラ」と呼ばれる背負い紐
などの繊維製品もあり、現在確認されているアイヌ文化の品々をほぼ網羅するものであった。
その中で、注目を集めたのがアイヌ語で「シリカップ」と呼ばれるメカジキの絵を刻んだ櫂である。
メカジキは全長3,5mほどもあり、時には船を突き破り、人を刺すこともある危険な大魚。
当時の美々には、櫂のシリカップに豊漁と航海の安全を託して海に漕ぎ出し、巧みに船を操り、銛を打ち込んだ勇敢な男たちがいたのである。
美々8遺跡からは、アイヌの人々が作ったもの以外に、本州から運ばれてきた漆椀
桶、曲げ物なども多数見つかった。
又、主に和人が使っていたと考えられる下駄
や茶筅
などもあり、当時この遺跡が、アイに人の人々の集落(コタン)であると同時に、本州との交易の拠点であり、物資の集散地としていたことが伺える。
下駄や茶筅は、このコタンに和人が居住していた可能性の他に、内陸部に下駄の到着を待つ人や茶道を嗜む人がいたことが想像できる存在でもある。
当時の北海道に居住する和人たちの生活の一端を示す品として興味深い資料である。
(田村 俊之 千歳市教育委員会埋蔵文化財センター「北海道の古代・擦文・アイヌ文化)