アイヌ文化振興法施行、旧土人法廃止
1997年7月1日、「アイヌ文化振興法」(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)が施行され、同時に北海道旧土人保護法、旭川市旧土人保護地処分法が廃止となった。新法施行に先だつ6月27日には、同法の趣旨にそって、アイヌ文化の振興や民族の誇りが尊重される社会の実現にむけた事業をおこなう財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」(本部・札幌市)が発足。7月1日から業務を開始した。北海道旧土人保護法制定からほぼ1世紀。日本人以外の少数民族の存在がはじめて法的に位置づけられた。
新法の柱は文化事業推進
1899年(明治32)に制定、公布された「旧土人保護法」は、すでに主食のサケをとることなどを禁じられていたアイヌに農業を奨励し、それまでの伝統的な狩猟・採取生活から一変した農耕生活を強要、日本人との「同化」をおしすすめる役割をはたしてきた。旧土人法の廃止、新法の制定は、アイヌの最大組織「北海道ウタリ協会」が1984年5月の総会でその原案(「アイヌ民族に関する法律(案)」)をきめて以来の悲願であった。
北海道ウタリ協会がまとめた新法原案は、前文で「日本国に固有の文化をもったアイヌ民族が存在することをみとめ、日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする」とうたい、つづく制定の理由の中で「アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程にひきおこされた恥ずべき歴史的所産」と日本政府の責任をきびしく指摘している。
その上で、(1)基本的人権(2)参政権(3)教育、文化(4)農業、漁業、林業、商工業等(5)民族自立化基金(6)審議機関の6項目をあげ、この法律がアイヌに対する差別の絶滅を基本理念にし、国会や地方議会での議席の確保、アイヌ文化の振興、経済自立の促進などをめざす、としている。
しかし、7月1日施行の新法にとりいれられたのは6項目のうちの「教育、文化」だけだった。法の中身は文化政策にほぼ限定された「文化事業推進法」という性格が強く、アイヌが「先住民」であるかどうかについてもふれていない。
根強い国の警戒感
日本の統治がおよぶ前からアイヌは居住していたという先住性については、1997年3月、二風谷(にぶたに)ダム訴訟で札幌地方裁判所が「アイヌ民族は先住民族」と明確に認定し、国が民族独自の文化を不当に無視してきたと批判した。
二風谷ダム訴訟は、北海道平取町の二風谷ダム建設をめぐり、アイヌ地権者2人が北海道収容委員会を相手に土地強制収容などの裁決取り消しをもとめた行政訴訟。判決は、「アイヌ民族は先住民族に該当する」とし、ダム建設地がアイヌの伝統的な舟下ろしの儀式「チプサンケ」がおこなわれるなどしていた「アイヌ民族の神聖な土地」であるとみとめた。その後のアイヌ新法をめぐる国会審議の中で、政府はアイヌの先住性をみとめる姿勢を明らかにし、「アイヌ文化振興法」は、1997年5月8日成立した。
しかし政府には、民族自決権や土地、資源などの権利とも密接にからむ「先住権」認定への警戒感が根強く、衆参両議院も内閣委員会で「先住性は歴史的事実」とする付帯決議を可決するにとどまった。アイヌがもとめてきた先住民族としての権利の保障は先送りにされたかたちだ。
問われる新法の意義
一方、北海道開発庁と文部省が所管する「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」は、北海道と道内62の市町村が出資した1億円を基金に運営される。初代の理事長には前国立民族学博物館館長の佐々木高明が就任した。財団は研究者やアイヌ語の指導者育成、小中学生向け副読本の作成などを手がけながら文化振興を具体的にすすめ、「イオル(伝統的生活空間)の再生」の事業もすすめる計画だ。
アイヌ初の国会議員となった萱野茂・参議院議員は、アイヌ文化振興法成立にあたり、「アイヌと和人の歴史的和解の第一歩」と話した。「民族の誇りが尊重される社会の実現をはかる」とうたった新法に対する期待をしめすものだが、その一方で日本人がアイヌに対しておこなってきた差別と同化政策への歴史認識はあいまいなままのこされた。
北海道が1994年におこなった調査によると、北海道には2万3800人のアイヌがすみ、前回調査時の7年前にくらべて高校、大学の進学率は向上したが、1世帯当たりの平均収入は約300万円で5人のうち4人は生活苦をうったえている、という結果だった。ウタリ協会が新法制定をもとめたのは、ひとつには、こうしたアイヌの生活や差別にくるしむ現状の打開をめざすためだった。97年7月1日に施行されたアイヌ文化振興法は、これからその意義が問われていくことになる。
エンカルタ 百科事典 イヤーブック 1997年7月号より
金田一京助「大雪山」
北海道の屋根ともいわれる大雪山の最高峰は旭岳であるが、アイヌの人々にとって、十勝地方新得町と上川地方美瑛町の境に位置するオプタテシケ山が崇厳な神聖な山であるという。標高2013m。アイヌの天孫降臨神話がつたえられる山であり、オプタテシケという山名もアイヌ神話に由来する。大雪山にまつわるアイヌ神話について、アイヌのユーカラ研究で業績をのこした言語学者金田一京助がわかりやすくのべている。
[出典]金田一京助『学窓随筆』、人文書院、1936年
大雪山
北海道の背骨を成す中央山脈の殆(ほと)んど真中恐らく大きな赤?(あかえい)の形をしてゐる全北海道本島の凡(およ)そ中央とおぼしい所を指頭に抑へたら、ひとりでに指頭がそのあたりへ落ちるであらう所に、オプタテシケがある。十勝の平野からも、又裏の石狩平野からも、天馬空を駈(か)けるが如くに、遠く仰がれる高嶺である。アイヌ伝説では西の石狩川も、東の十勝川もこれを枕として東西へ足を投げ出して寝てゐるのだと考へられ、これこそ北海道最高の地点だと信じられて居る。丁度、ノアの洪水の時に、ひとり残つて水から出てゐたエトナ山がアイヌ伝説に於けるこのオプタテシケである。
又国造(くにつくり)の神が、人間の国土を造り了(お)へて天へ帰つた時に、国造りに用ひた鍬(くわ)を、オプタテシケの上へ置き忘れて行つた。神の手にされたものが、空しく腐るのは勿体(もったい)ないから、鍬の柄が根を生やして大きな春楡(はるにれ)の大木に成つて天を掩(おお)うて立つてゐたといふ。
そこへ世界の涯(はて)から涯へ遍歴する大年神がやつて来られて遠くその春楡の樹を見愛(め)で、その梢(こずえ)へ休らつて去つた。神の好しと愛でたものが、よしんばただの思ひであつても、その侭(まま)になつてしまふのは勿体ないから、春楡の女神が妊娠をした。そして一男子を挙げたが、春楡の女神は、その上は風が強いので赤坊が心配故、天上の国造の神のもとへ行く方がよいと、そこで春楡の樹皮の厚司(アツシ)を着せて天上へ送る。
天上に人となると、国造の神のいはれる様、人間世間に最初に生れたものが汝(なんじ)であるから、人界の国土の長となるべき汝である。疾(と)く疾く、人間世界へ降り、人間の元を肇(はじ)めよと云つて太刀をくれて天降らせられた。春楡媛(ひめ)も、その子に着せるに春楡の厚司を造り与へて天へやつたが、その厚司は鎧(よろい)になつた。その刀は、抜くと火が燃える刀だつたから、鞘尻(さやじり)は焦げてゐた。
春楡の厚司も裾(すそ)が焦げてゐたと云ふ。かくして人間国土の最初の王として君臨したのは此(これ)はオキクルミといふ人であつた、と伝へるのであるから、このオプタテシケは、さながら日本神話の高千穂の峰のやうに崇厳な神聖な高山である。 今日の調べでは併(しか)し大雪山の最高峰は石狩河の上流の旭岳といふことになつてゐる。アイヌ名ヌタツプカウシペであるのに、永田方正翁の北海道蝦夷語地名解にヌタツカムシ(Nutakkam-ush-be) 「頬山」とあるものだから、諸書これに従つてヌタツカムシペとしてゐるが、若(も)し頬ならノタツカムシペ(notakam-ush-be)であるべきだ。
石狩アイヌの口碑ではnutapka-ush-peであつた。Nutapは、川の曲つて流れる所で内側になる川添ひの土地をいふ語であつて、丁度石狩川の上流の円(まる)く回流する河内(こうち:nutap)の上(ka)に立つてゐる山だから、さういふと云つているのが、本当の語源であらうと思はれる。『河内山』である。
祭の時に、大勢で唄(うた)ふ神歌(ヴポポ)の中に
オプタテシケ Optateshke ペンタプカシ Pentapkashi チエシルンパホー chieshirump,h?! クルクルテホー kurukrte,h?!
といふ歌がある。昔からの呪文(じゅもん)の様な歌で、歌ひながら、意味も起原もわからなくなつてゐる程古い歌であるが、始まりの所は、尚明かに、このオプタテシケ山の東の方の頂きの上に、といふ意味である。あとの二句は、何か見えた、何か見つけた、といふ風に聞こえるのであるが、果してさういふ意味だつたのか、訛(なま)つた結果そんなやうになつたのか、何人も説(と)けない神秘な歌である。
尚、樺太(からふと)アイヌの歌の一等著名な、盆などに、盆踊のまねをして男女歌ひながら踊る時に唄ふことになつてゐる左の歌詞も、更に更に崩れて意味が取れなくなつてゐるが明かに上掲の歌の伝播(でんぱ)したものである。宗谷から伝はつたと伝へてゐるから。
オコテシケ プルプルケ ペンノタプカ、ソーシペニソーヤ アキノアア、クーネー クーネ、エムシランケ
この歌は樺太の唄の中で一等面白い節だと、兼常博士が折紙をつけられてゐる歌である。 兎(と)にも角にも、大雪山連峰中、このオプタテシケはアイヌ伝説中の最高峰であり、最も神秘な、神聖な山になつてゐるのである。
オプタテシケ(op-ta-teshke)の解釈は、いつか、この雑誌に、どなたであつたか、解いて居られた様に、神々の嫉妬説話(うわなりせつわ)と結合して、嫉妬に燃ゆる神の投げた槍(op)が、身を開いた為にそこに(ta)かすつて逸(そ)れた(teshke)といふことで、槍を投げたところは最高標の立つ所、チトカヌシ(chi-tukan-ushi)即(すなわ)ち、「放擲(ほうてき)した場所」がそれであると言伝へられる。
(c)金田一春彦